昭和43年3月17日 夜の御理解 (末永信太郎) №43-044
最近、福岡の渡辺先生が毎日日参をしておられます。ご承知のように大変忙しい方なんです。( )学院の、まあ、院長さんですから、大変忙しいですね。今、学院の願書受け付けの時期でもあるし、やはり、そうですね、やっぱり、3時間も4時間も、場合にはかからなければおられんのでございますが。
それが、あの、今日もやっぱり忙しいことで( )しとりましたが。息子さんが、お母さん、今日はご無礼してから、あの、明日どうせお参りなさるとじゃから、今日は休まれたらどうですかち言うて、言うたら、まあ、そげなこと言うてから、お母さんはもう、今は椛目参り、合楽参りが、もう私の命のごと思うとると、ほんなこと言うてからと思いよったら、何か知らんけれども、その、涙が込み上げてきた。
それから、自分ではそれが何の涙かわからんけれども、後で考えてみると、こう、何かそげん一生懸命思えておるということが有り難かった。息子さんには、それを腹立てて涙流しよるので、いや、そげん泣かんでんよかたい、そげん泣こうごたるなら参って来なさいて言いよったて言うてから、笑っておられましたけれどですね。そして、来る道々、その、言うておられる、思うておられることなんですよ。
本当に、まあ、善導寺か田主丸辺りのように近い方。特に、また地元の方達のように、もう、参ろうと思うたら何遍でん日にお参りが出来るような方達は、本当に幸せ、本当に近いところにおったならと以前は思いよったけれども、今日という今日ばっかりは、もう良うも良うも福岡からお参りをさせて頂いておるということが有り難かったと言うておられますですね。
私はここんところが、一つ分からなければいけないですね。もう、いわば、福岡からまで、言うなら何十里の道をです、毎日お参りが出けておるということ。しかも、暇だから、楽だからというのじゃない。そういう忙しい中にもです、その三時間なり四時間なりというのは、もう完璧に自分を空しゅうしてる。ね。
言うなら、もう、それだけの素晴らしい還元をさせて頂きながらです、または、それほど自己を肯定しないでの、その信心がですよね。とてもお参りをしようと思うても、こういう忙しかから。これは、もう肯定しておる。ね。何時間もかかるから、というのは、もう言い訳。ですから、そこに自分を肯定しないでの在り方にならせられておるということがです、本当に有り難いと言うて、今日お礼を申しておられます。ね。
信心っちゃ不思議なことですね。かと言うて、なら、近くであるということはです、んなら、やはり、その、中村さん達のことやら、朝もお参りする、昼もお参りが出ける、ね、夜もお参りが出来る。もう、本当にそのお参りが出けるということが、まあ、何と幸せだろうかと、こう感じられる。これは、もう、信心が遠いとか近いとかですね、忙しいとか忙しくないとかじゃないようです。ね。
いよいよ、自分、心を神様に向けて行ったら、どのような中にでも有り難いお参りが出けるということですね。しかもそれが、その、(難儀を犯して?)参るとか、ね、時間をかけて参るとか、忙しい中にお参りをするという時ほどに、有り難い。ね。いやあ、私は合楽参りが命だ、と。それを神様が喜びなさった、感動しなさった。その感動が、いわば、その息子さんに渡辺先生が言うておられることになって来るのじゃなかろうか、と。ね。今朝から、朝の御祈念のあとに、私、2番目のその光昭ですが、御神眼を頂いて。
御祈念中に、もう、びっくりするように大きくはっきりと、大きな写真に親先生の写真を頂いた。しかも、それに黒枠の入った、お葬式の時に使う、そん中の親先生の姿を見てびっくりしたとお届けしております。霊神様の前に出た時に、ある御霊様がお茶が欲しいと仰った。ね。そういうような、まあ、お知らせを頂いておりますが、だから、私は申しました。本当に、神様がこうやって、とりわけ最近、まあ、皆さんが一生懸命、修行しよる。子供達も一生懸命、修行しよる。
若先生が朝の御祈念を奉仕する。もう、お父さんがおられなくても、親先生がおられなくても、もう、これで大丈夫というような感じ。お父さんがおられなかったら、僕達がどういう気持ちで信心するだろうか、どういう在り方になるだろうかというくらいな、一生懸命の気持ちでおかげを頂かなければならんということじゃなかろうかね、と言うて、まあ、申しましたことです。
同時に、それは私がですね、最近、自分を肯定しない。同時に、否定もしない。ということは、どういうことかと言うとですね、自分をいよいよ空しゅうしておる。自分を、もう、殺し切ってしまっておる、自分というものを。そういう姿のことでもあろうと、私は思いました。ね。
渡辺先生が三時間なり、四時間なりをです、もう、完璧完全に神様の前に、もう、死んだ気でおられるわけです。ね。理屈は言われない、言い訳をされない、肯定をされない。の、自己を肯定しないでの生き方がそういう形になって現れておる。そしてそれがです、二時間よりも三時間かかる、例えば、近いよりも遠いところからお参りが出けるということを、有り難いと今日ほど切実に感じたことはなかったと、こう言うておられる。ね。そういう意味合いにおいて、なら、私の場合はです、まあ、言うならば、ここに神様の御取次をさせてもらい、ご奉仕をさせて頂いておる間を、自分というものを空しゅうしておる姿が、黒枠の中に入っておる私であったんではなかろうか、という風にも思うのです。
と同時にです、お互いがいつ、んなら、親先生がおられないようになりましてもです、ね、本当に私は、信心するものを自分のものにしておかなければ。ね。近いから遠いからといったようなことぐらいで、それが否定の元になるような信心であっては、ね、ならない。本気で一つ、信心を把握させてもらうというか、自分のものにしておくところのおかげを頂いたら、誰がいなくても、ね、生神金光大神取次の道が、いよいよ自分達の生活の現場の上に、生き生きとして現して行くことの出来れるおかげが、私は受けられると思うのです。どうぞ。